島正の歴史
今も昔も、皆様より愛された『島正』
島正の始まりは、昭和24年に広小路通で営まれた屋台「きむらや」です。戦後の名古屋で、熱い鍋と濃厚な味噌の香りは働く人の一日の締めくくりとして親しまれ、やがて店は「島正」として暖簾を掲げました。
看板のどて焼きは、八丁味噌の深いコクを土台にしながら、重たすぎず酒にも食事にも寄り添うのが持ち味です。昔からの常連はもちろん、名古屋めしを目当てに訪れる初めてのお客様にも、ひと口で店の記憶が残る味を目指して磨いてきました。
どて焼きが名物の島正の前身は広小路通の屋台
「うわあ、いっぱいだ。入れるかな?」
入り口の引き戸を開けた客がひと言。
すると「はいはい。ここに座って」と先客が席を詰め、「いらっしゃい。すいませんねぇ」と店主が頭を下げる。
カウンターのみの店・島正にはなんとも心地よい一体感がある。現在この店は、2代目の喜邑定彦さんが、妻の和子さん、息子の竜治さんと家族水入らずで切り回している。
アットホームな雰囲気が店全体に流れていて、肩を寄せ合って飲む客の姿は屋台を想起させる。
それもそのはず、島正のルーツは屋台なのだ。
定彦さんの両親、信彦さん(故人)・きよ子さん夫妻が、島正の前身である屋台、きむらやを創業したのは昭和24年(1949)のこと。
「主人は会社員だったんだけど、戦争の影響でお給料も少なくてね。これじゃ暮らせないからって店を始めたんです。私は料亭で女中頭をしており、接客のたしなみもありましたし」
いまは隠居の身であるきよ子さんが当時の思い出を語り始める。
寝る暇もないほど繁盛!屋台最盛期を迎えたころ
「屋台を出すには道路許可証が必要でね。これが手に入らなくて困っていたら東京銀行の課長さんが、うちの軒下を使いなよって。いまじゃ考えられないでしょ?」
銀行の好意を受けたきむらやが2つの屋台をつなげた店を出すと、このスタイルが受けて大繁盛。
「2台つながった屋台はうちだけ。15人は座れたから目立ってたね」
ところがこれがほかの屋台の嫉妬を生み、数々の嫌がらせに遭った。
「仕入れ素材を盗まれたり、道路許可証の件で警察に通報されたり・・・」。
結局、警察の指導で屋台を移動せねばならないことに。運よく靴屋から道路許可証を購入できたため、以後は広小路伏見の北東側で営業することになった。
「栄から柳橋まで400軒近くは並んでいた」という広小路通の屋台が最盛期を迎えたのは昭和35年(1960)ごろ。
左端がきよ子さん、その隣が初代の信彦さん
屋台時代の思い出を語るきよ子さん
当時のきむらやの営業時間はあってないようなもの。毎日始発の時間まで営業し、昼過ぎには仕入れを終えて屋台を組み立てていたというから、寝る暇もないほどだ。
そんな忙しさを支えてくれたのが常連客との触れ合いだった。
「クリスマスにはお客さんが持ってくるケーキがあふれ返ったもんさ。みーんな三角帽をかぶって幸せそうだったね」。
うれしそうに当時を振り返るきよ子さん。当時の客は長者町繊維街の旦那衆が多く、近辺に7軒あったキャバレーの女性と共に飲み明かすことも珍しくなかったとか。
昭和20年代、18歳のころからの常連だという杉浦銀三さんもこう言う。
「当時は長者町で丁稚奉公中でね。飲み食いしたいけど旦那衆みたいに金がない。皿に残った串の数で勘定するから、親父さんの目を盗んでは串を捨ててたよ。それがばれても笑って済ませてくれたものさ」。
そんな先代の人柄にほれて通った客も多かったとか。
「店のはやり廃りは、店主の人間性に困るところが大。客層も自然に決まるもの」と2代目の定彦さんが言葉を重ねる。
きむらやから島正へ。変わらぬはもてなしの心
きむらやが転機を迎えたのは昭和35年(1960)。新国劇の看板役者・島田正吾氏がこの店を気に入り、新国劇のマークにサインをした暖簾を贈ってくれた時だ。
地面に届くほど長かったこの暖簾は、きむらやのもう一つの旗印となった。
やがて客は暖簾を称し「島正の店へ行こう」と言い合うことに。きむらやという名はしだいに有名無実となり、「客が呼ぶのなら」と店名を島正に改めたのだった。
昭和38年(1963)、屋台が全面廃止となったあとは店舗を構えたが、客との触れ合いを重視してカウンター席しか設けなかった。現在のどて焼きも屋台時代と変わらない。が、
「昔はそれほどいい素材がなかったはず。当時のものをこの場にもってきても旨くないでしょ。嗜好も変わったはずだし、味付けは微妙に変えてるよ」と定彦さん。
確かに「伝統の味を守る」というと聞こえはいいが、客との会話を大切にし、変わらないようでいて進化する。きょうも客が押し寄せる島正には、最も大切な「もてなし」という心が引き継がれていた。
【当店「島正」の由来となった、新国劇俳優 島田 正吾 さんについて】
島田 正吾 さんは、戦後の日本において演劇の中心となった劇団「新国劇」の中心的俳優として活躍されました。
代表作としては、演劇『関の弥太ッぺ』『瞼の母』『一本刀土俵入』などの股旅物(またたびもの)をはじめ、『霧の音』『ビルマの竪琴』など現代劇などを演じ、NHK大河ドラマ『勝海舟』(1974年(昭和48年))、連続テレビ小説『ひらり』(1992年(平成4年))などテレビドラマにも多数出演されました。
生前は晩年にいたるまで、『役者』であることに尽くされた、日本の俳優史に残る名優のお一人として、今も多くの方々に慕われています。
